私はいまでも嫌われ者なのでしょうか?

嫌われ者エリート

エンジニア / 名誉社員

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一日のスケジュール

あの、私はUSDの社員ではないんですけど、なぜこのページに出ているのでしょうか?
確かに2019年10月までは社員でした。
でも現在は東京大学の博士課程の学生という肩書があります。
あ、こういうところが私が嫌われ者と言われる所以なのかもしれないですね。

1.今思えば、嫌な奴でした

高校卒業まで宇都宮市で育った私は、餃子で言えばみんみん派でした。小2からサッカー少年団に入っていましたので、健全な子どもだったはずです。学校でも優等生でしたから、いわゆるクラスの中心人物的な存在。今思えば、典型的な嫌な奴ですよね。父が地元で塾を経営していたので、幼いころから父の塾で勉強しているため、学校の授業は復習のようなもので簡単だったんです。ますます嫌な奴ですよね。

でも中学に入ると状況がガラッと変わります。優等生に変わりはなかったのですが、周りからは根暗な奴と思われていたはずです。音楽が好きになり、ハイスタンダードやゆらゆら帝国なんかを聴くようになって、バンドも組みました。かなり大人びた趣味をしていたので、同級生がガキに見えてくる。「おまえらとは違う」などと自意識過剰になり、典型的な中二病に侵されました。本当に嫌な奴でした。

高校はもちろん栃木県で一番の進学校に入学。Fender USAのジャズベースを購入しバンドに熱中。オアシス、レッチリ、グリーンデイ、アークティックモンキーズ等々。女子高の軽音楽部と一緒にライブを開催したりしていました。そうやって聞くと、ますます嫌な奴と思われそうですが、私は超絶オクテなぼんくら高校生だったんです。こじらせ系エリートとして、女の子にはさっぱりモテませんでした。

なぜなら高校時代は数学と物理に夢中になっていたので、女の子にモテるはずがありません。世界は全て数字でできている。この地球上の全ての事象は数式で表せるということを知ってしまった私は、物理学者になりたいと思ったのです。学者志望の童貞男子なんて、気持ち悪いですもんね。

2.今思えば、東大に入ってからおかしくなりました

物理学者になるための一番の近道は、一番の大学に入ることだと思いましたので、東大の理科1類に現役で入学しました。勉強ができるというのは、オタクの一種なのかもしれないと思います。映画オタクの人が、古今東西の名匠と呼ばれる監督の作品を全部観ていたりするのと一緒で、いろいろなことが知りたくなるのです。ですから物理の勉強が楽しくて仕方ありません。結果、大学でも成績上位でしたから、「東大生なんてたいしたことないじゃん」と思っていたほどです。嫌な奴です。

ところが2年の時、高校時代いっしょにライブをやっていた女の子と偶然再会します。今思えば、ここが人生の転機でした。再びバンド活動を始めるようなった私は、出場したヤマハのコンテストでも上位10組に選ばれ、プロを意識するようになりました。ヤマハのディレクターから指導を受け、プロのアーティストのバックバンドも務めました。プロになりたいと考えるようになってから、物理学者の夢は自然と消滅していきました。

3.今思えば、田中先生との出会いから人生がはじまりました

物理への思いが消失した私は、工学部へと進みました。プロのミュージシャンになりたい気持ちと、なったところで食べていけるはずがないという不安が常に同居していて、八方塞がりに陥っていました。しかし、大学4年の時に所属した研究室で、忘れられない出会いがあったからです。

研究室で指導をしてくださった田中先生は経営コンサル出身という大学の先生としては異色の経歴の持ち主で、物腰の柔らかさとは対照的に切れ味鋭く社会を見通す目を持っておられました。それまで私が付き合ってきた大人というのは、仕事を転々とする自称ミュージシャンや、怪しいプロデューサーなど。先生に出会って、「これがカッコいい大人なんだ!」と思えたのです。研究の方も、データを活用して様々な対象について効率化をしたりするもので、自分の興味に合致していました。

大学院進学後も田中研究室に入りたかったのですが、研究室の定員に入れず落ちてしまいました。試験に落ちるという経験がこれまでになかったので、人生初の挫折とも言えます。修士1年の時には就活も失敗しました。自分らしい軸を持たずになんとなく人気企業ばかり受験。東大ブランドがあればどこでも受かると思っていたのですが、全部落ちました。それで自分の強みは何か考え直しました。数学が得意だったのと、データ分析のアルバイトをしていたので、当時流行の兆しを見せつつあったAI(機械学習)とその基礎を支えるITを学ぶことにしたのです。これまで方向性の定まらなかった私ですが、この考えに出会ってようやく鶴嘴の先が鉱脈にガチッと当たったような気がしました。それからは、日々図書館に籠もって関連書籍を読み漁り、悪戦苦闘しながらPCの環境構築をし、プログラムを書くという生活を続けました。そのようにして徐々に力をつけていきました。大学を出た後は、とあるITコンサルに入社し、どのようにシステムが作られているのかというITの現場を学びました。AIの方は仕事が終わった後に独学を続け、AIのコンテストで日本一になったりということも経験し、研究をしたほうが力を生かせると思うようになりました。それで田中研究室に戻ってきたのです。

USDで1年余りお世話になったのは、田中先生の紹介がきっかけです。世間知らずの私には、USDは刺激が強すぎました。キャラの濃い猛獣ばかりで、上原さんはいわば猛獣使い。私もあやうく獣になるところでした。

現在は東大の博士課程の学生です。最近の私はさまざまな失敗を経験したことで、嫌な奴ではなくなっていると思います。それでもUSDにお邪魔すると、みんなから「嫌われ者エリートが来たぞ!」と冷やかされます。その温かい冷やかしが、矛盾しているようですが、とても居心地良いのです。

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