ひょんなきっかけが連続して、いまUSDにいます。

MSX

システムエンジニア

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一日のスケジュール

はじめまして。ひょんなきっかけでUSDに中途入社し、
気が付いたら在籍年数10年を超える古株エンジニアとなってしまったMSXです。
数年前に結婚し、戸建を買ってしまったので、辞める機会をすっかり失ってしまった私の話を聞いて頂ければ幸いです。

1.ひょんなきっかけで、絶望を味わいました

東京生まれ、横須賀育ちの私の半生を振り返ると、いつもひょんなきっかけに乗せられてここまで来てしまったように思います。1978年生れの私の世代は、初代ファミコンの直撃世代。「Bダッシュ」や「復活の呪文」が小学生の流行語となる時代でした。ただ私の場合、Bダッシュして最初のクリボーに激突するような子でしたから、ファミコンとはあまり縁がなく、むしろMSXという規格の8ビットパソコンに夢中になる、当時としてはかなりマイナー路線の子どもでした。

MSXはマイクロソフトとアスキーが提唱した規格で、当時国内の様々な家電メーカーから発売されていました。この話、同世代の人間に話しても通じません。みなファミコンという下等コンピュータに汚染されていましたから。父親に買い与えられたMSXが、私がITに触れた最初のきっかけです。当時のキャッチコピー、「夢をのせて400万台」というフレーズが虚しく響きます。

そんな私は小2の時、門限の時間に間に合わせるため、自転車を飛ばしていました。四つ角に差し掛かり、スピードを緩めなかった私は、自動車と出合い頭に衝突。くるぶしが真っ赤に腫れあがり、整骨院に通う羽目になりました。そこで出会った整骨院の先生から、「また事故にあった時、柔道の受け身をマスターしておけば、大怪我は避けられる」と説得され、なぜか柔道を習うことになりました。先生は道場の師範でもありましたから、うまく勧誘されたわけです。

ひょんなきっかけで柔道を始めた私は、特に車と衝突することもなく、中2の夏まで道場に通いました。ところが黒帯昇段試験の直前に、試合で腰骨を折る大事故を起こしてしまいます。車に衝突しても受け身をとれる程実力をつけていたのに……。

石膏で固めたコルセットを腰に巻き、運動もオナニーもできない状態が3ヶ月も続きました。爪先までしびれ、ちょっとの動きで激痛が走る体になってしまったのです。ひょんなきっかけで始めた柔道のおかげで、私の人生は14歳にして終わったと、絶望の淵に追い込まれたのです。

2.ひょんなきっかけで、日本を離れました

3ヶ月後、ようやくコルセットが外れました。先生からは激しい運動を禁止されていたため、柔道は諦めざるを得ませんでした。そこで軽い運動なら大丈夫だと、サッカー部に入部。なぜサッカーが軽いスポーツなのか、今考えるとよくわかりませんが、ゴールキーパーとして新たな人生を歩み始めます。

実家から一番近い高校に進学した私は、そのままサッカーを続けました。3年生の夏、神奈川県予選で学校としては初のベスト16入りを果たします。敗れた相手は、あの中村俊輔擁する桐光学園高校。俊輔の桁違いのスピードとテクニックに、私のチームはきりきり舞いさせられ、歯が立ちませんでした。まあ私は応援席にいたから、観ていただけなんですけどね。

大学に進学する気は全くありませんでした。というのも小学2年でMSXに触れてから、漠然とではあるものの、将来はコンピュータ関連の仕事に就こうと考えていたからです。そのため情報処理の専門学校に進学し、いち早く社会に出ようと考えました。

専門学校を卒業して、渋谷の開発ベンダーに就職。C言語を3ヶ月で習得し、安月給で馬車馬のように働かされました。そんなブラック生活に慣れきったころ、専門時代の友人の結婚式に呼ばれ、ハワイへ行くことに。以前から英会話を勉強していたので、少々の自信はあったのですが、日本人観光客だらけのハワイですら全く通じない。あまりにもショックで、日本に帰ると早速英会話教室に通いました。夢中になって英会話を勉強しているうちにワーキングホリデーの存在を知り、とっととその会社を辞めオーストラリアへ旅立ったのです。

1年間のワーキングホリデーですっかり語学力に自信がついた私は、これ以上オーストラリアにいる必要もなく、日本に帰ることに。ところがその後の準備など何もせずに帰国したのですから、まず仕事がない。慌てても仕方ないですから、ブラブラしていたのです。

そこにひょんなきっかけが、また私に舞い込むのです。

3.ひょんなきっかけで、10年以上経ってしまいました

そのひょんなきっかけというのは、宴会部長の存在です。宴会部長と私は専門学校時代からの腐れ縁。新卒で入社した会社も一緒でした。帰国後ブラブラしていた私の携帯電話に、宴会部長から「うちの会社こいよ」と誘われたのです。

面接をするということで、品川駅前にあるつばめグリルに出向きました。そこで上原社長とお会いしました。二人で跳びはねる肉汁に細心の注意を払いながら、ハンブルグステーキを頬張り、いろいろと話を伺いました。でもその時話した内容というのはほとんど記憶にありません。肉汁が服につかないように気を配り過ぎたせいなのか、上原の話が大した内容ではなかったのか、いまとなっては思い出せません。

ただ、上原と10年以上付き合っている身から言わせて頂くと、社長の話はたいがいにおいて覚えておく必要のないことばかり。それだけは、最後に付け加えておきたいと思います。

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